有馬晴信

ありまはるのぶ ( arima-harunobu )
1567 〜 1612


有馬晴信 年表



有馬晴信。父は有馬義貞。肥前国のキリシタン大名。
1570年に兄の義純に家督が譲られるが、 翌1571年に亡くなってしまい跡継ぎ不在の為、有馬晴信は兄の養子となり、家督を継ぐ。 当初、有馬晴信はキリスト教を弾圧するが、 1580年ヴァリニャーノにより受洗。 「ドン・プロタジオ」という名を持ち、セミナリヨを建設。 1582年には大友宗麟や、 一族の大村純忠と共に「天正遣欧少年使節」をローマに派遣。
これまでイエズス会からの物資供給もあり、 龍造寺隆信の侵攻をなんとかしのいでいたが、1584年、 有馬晴信は島津氏の援助を得て隆信を戦死させ、 1587年羽柴秀吉九州征伐では秀吉方に属す。 1592年文禄の役では、 小西行長の軍に属して朝鮮に渡海する。
1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、 本戦が敗れると有馬晴信は東軍に寝返り、行長の領地を攻撃して所領を安堵される。
1609年、ポルトガルの統治するマカオにて派遣した乗組員が多く殺されると、 1610年、有馬晴信は長崎に入港したマードレ・デ・デウス号を爆破。 岡本大八がこの功績で旧領を回復出来ると近づいてくると、多額の賄賂を贈る。 しかしこれは詐欺で、大八の上司の本多正純に申し出て発覚。 徳川家康大八を火あぶりの刑にし、 晴信はさらに大八に濡れ衣を着させられ、甲斐国に流され死罪となる。

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