足利義昭

あしかがよしあき ( ashikaga-yoshiaki )
1537 〜 1597


足利義昭 年表



足利義昭。室町幕府第十五代将軍。父は第十二代将軍の義晴。 兄にのちの第十三代将軍となる義輝がいたため、仏門に入り覚慶と称する。
1565年、兄の義輝が、 松永久秀三好三人衆京都二条御所を襲われ亡くなると、 久秀らに捕えられ、軟禁。 しかし、義輝の側近達の手により脱出。 近江国の和田維政を頼り逃れ、 翌1566年に足利義秋と名乗る。 その後も三好三人衆らに追われて若狭国へ逃れ、 1567年に越前国の朝倉義景を頼るが上洛の意思はなく、 翌1568年四月に朝倉館で元服。義昭と名を改め、 明智光秀の仲介で美濃国の織田信長に迎えられる。
同年九月信長は上洛を開始。 信長の義弟で近江国の浅井長政の協力もあり、 六角義賢の反抗や、 三好三人衆久秀を退け、 同年十月に足利義昭は第十五代将軍に就任。再建に努める。 翌1569年信長が帰国すると三好三人衆に襲われるが、 周りの協力で撃退に成功する。
しかし、信長同1569年「殿中御掟」を提示し、足利義昭の将軍としての動きに規制をかける。 幕府再興を目指す思惑との相違により関係が悪化すると、 足利義昭は1571年上杉謙信毛利元就本願寺顕如武田信玄らに書状を送る。 後に信長包囲網と呼ばれるが、 これに朝倉義景浅井長政松永久秀三好三人衆三好義継などの信長の対立勢力が加わることになる。
1572年信長から 「異見十七条」が送られ、批判を受けて足利義昭は挙兵。 しかし翌1573年に近江国で敗れ、信玄の死や、 足利義昭の配下の細川藤孝荒木村重信長につき、 次第に劣勢になっていく。 1573年七月に足利義昭は山城国槇島城に籠城するものの降伏。 ここに室町幕府は滅亡。
足利義昭は京都から追放されると、義継の下へ身を寄せ、 1574年には紀伊国。 1576年には毛利輝元が治める備後国に下向。 1583年輝元羽柴秀吉に従うようになり、 足利義昭は1588年に帰京。 将軍職を辞して秀吉から山城国槇島に一万石与えられる。 その後の足利義昭は御伽衆に加えられたという。足利義昭の墓所は京都の等持院にあるといわれている。

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