遠藤慶隆

えんどうよしたか ( endo-yoshitaka )
1551 〜 1632


遠藤慶隆 年表



遠藤慶隆。父は美濃国の国人、盛数
父の兄が東常堯に暗殺され、幼少の胤俊が宗家を継ぐが、 父は東氏を滅ぼして八幡城主となり宗家を簒奪。 胤俊に所領の半分を与える。
1562年、遠藤慶隆は幼少の身で跡を継ぐが、 母が斎藤家の重臣、長井道利に嫁ぎ後見役を得る。 1564年竹中半兵衛が稲葉山城をわずかな手勢で乗っ取ると遠藤慶隆は避難。 この隙に八幡城を胤俊に奪われるが、 道利の援軍を得て和睦。八幡城へと戻る。
1567年斎藤氏が滅亡すると織田信長に仕え、 遠藤慶隆は1570年姉川の戦いに従軍して活躍。 しかし浅井・朝倉軍に攻められ、胤俊が戦死。 その弟の胤基が跡を継ぎ、1571年比叡山焼き討ちに従軍。1582年、 遠藤慶隆らは金森長近に属して飛騨国から甲斐国に侵攻。武田氏を滅ぼす。
同年本能寺の変にて信長が亡くなると、 遠藤慶隆らは三男の織田信孝に従い、羽柴秀吉と対立していくが、 1583年に降伏し、 1584年小牧、長久手の戦いに従軍。 その後、遠藤慶隆らは1585年紀州征伐1587年九州征伐にも従軍するが、 1588年、以前の対立を蒸し返され遠藤家全体で二万石以上あった知行を減封。 慶隆は美濃国小原に七千五百石。胤基は美濃国犬地に六千五百石となってしまう。
遠藤慶隆らは1590年小田原征伐にも従軍するが、 1593年文禄の役の最中、胤基が病没。 その子の胤直が跡を継ぎ、伏見城普請に共に参加。 1600年関ヶ原の戦いが起こると遠藤慶隆は東軍に属し、 織田秀信に応じて西軍に属している胤直を降伏させ、 遠藤慶隆は戦後、八幡城主に返り咲き、二万七千石を賜り郡上藩が成立。 遠藤慶隆は初代藩主として領国経営に努め、 1614年からの大坂の両陣にて活躍する。

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