井伊直政

いいなおまさ ( ii-naomasa )
1561 〜 1602


井伊直政 年表



井伊直政。幼名は虎松。父は直親。徳川四天王のひとり。
父が佞臣小野道好の讒言により、 徳川家康への内通を今川氏真に疑われ、 1562年に攻められ殺されてしまい、 一族滅亡の危機を新野親矩に救われる。 跡継ぎとしては幼少で、命を狙われていたこともあり、 のちに養母となる直虎が当主となり、鳳来寺に預けられる。
1575年家康の小姓として出仕。名を万千代と改める。 1581年高天神城攻めに従軍し、功をあげ、 1582年、養母の跡を継ぎ、井伊直政と名乗る。 同年本能寺の変が起こると、 井伊直政は家康伊賀越えに従う。
また、政治や外交の才も抜群で、 同年北条氏との旧武田領に関する交渉にあたり、 信濃国、甲斐国を領し、武田旧臣百二十人を取り込み、 直政は「井伊の赤備え」と呼ばれる甲冑が赤で統一された精鋭部隊を築く。 1584年小牧、長久手の戦いで井伊直政は、 豊臣方池田恒興の軍を破り、 その勇猛振りから直政は以後、「井伊の赤鬼」と恐れられるようになる。
1586年に従五位下。1588年に侍従に叙任。 井伊直政は1590年小田原征伐にも従軍。 家康が関東に入ると、上野国箕輪城十二万石を賜る。 1591年九戸政実の乱で井伊直政は先鋒を務め、 1598年家康の命で、 箕輪城を廃して南の和田城を改築。高崎城と改め、居城にする。
1600年関ヶ原の戦いで井伊直政は、 本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、 島津豊久を討ち取るが、大怪我を負ってしまう。 戦後処理として、毛利輝元との講和に努め、 山内一豊の土佐入国を援助、 真田信之の懇願もあり、 昌幸幸村親子の助命に尽力。 それらの功により近江国佐和山十八万石を与えられ、 1601年に従四位下に叙任されるが、 翌1602年、井伊直政は関ヶ原の傷がもとで亡くなってしまう。

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