稲葉一鉄

いなばいってつ ( inaba-ittetsu )
1515 〜 1588


稲葉一鉄 年表



稲葉一鉄。良通とも。稲葉一鉄は別名が多い。 稲葉一鉄の父は美濃国の国人、通則。五人の兄がいる。 稲葉一鉄の姉は斎藤義龍を出産する。
稲葉一鉄は幼少時、崇福寺で僧侶となるが、1525年牧田の戦いで父と兄たちが近江国の浅井亮政と戦い討死。 そのため還俗して家督を相続。曾根城主となり、美濃守護の土岐頼芸に仕える。 1542年斎藤道三頼芸を追放し、 美濃国を乗っ取ると道三に仕え、「西美濃三人衆」と呼ばれる。 1556年長良川の戦いでは義龍方につく。 1561年義龍が病死し、 義龍の子の龍興に仕えるが、 一部の家臣を優遇して讒言を聞き入れない為1567年、 西美濃三人衆は尾張国の織田信長の侵攻軍に内応。 斎藤氏滅亡の足がかりとなる。
それからは1568年観音寺城の戦い1569年の伊勢国大河内城の戦い1570年の越前国金ヶ崎城の戦いに従軍。 同年姉川の戦いでは、 徳川家康の加勢として行動し、 劣勢の織田勢を救援する活躍をみせる。この頃から稲葉一鉄と名乗るようになる。 その後も稲葉一鉄は各地を転戦し、 1573年の越前国一乗谷城の戦い1574年長島一向一揆1575年長篠の戦いなど各地で武功をあげる。
1579年、子の貞通に家督と曾根城を譲り、 稲葉一鉄は美濃国清水城に移る。 1582年本能寺の変が起こると、 稲葉一鉄は明智光秀に通じて再起を図る安藤守就を討ち取り、 斎藤氏を擁立して自立しようとするが、羽柴秀吉に従い、 1584年小牧、長久手の戦いに参陣。 1585年秀吉が関白になると稲葉一鉄は従三位、 法印に叙任するが、1588年、清水城にて亡くなってしまう。
ちなみに稲葉一鉄は、文才や歌道、茶道などの教養もあり、 信長に謀反の疑いで殺されそうになったときもその文才で無実を証明。 稲葉一鉄は他国からも「仁君」として一目置かれる存在であったという。

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