三好長慶

みよしちょうけい ( miyoshi-cyokei )
1523 〜 1564


三好長慶 年表



三好長慶。甲斐源氏小笠原氏の支流。 摂津国芥川城主三好元長の子。 三好長慶は将軍足利義輝を自害させる人ではない。
1532年長慶は父の戦死により、家督を相続。 三好長慶は1533年本願寺管領細川晴元の講和を仲介し、 翌年木沢長政の薦めで晴元に仕え、幕府に出仕。
1539年長慶は晴元と不和になり争うが、和睦。 1541年長政と対立。 翌1542年に河内守護代遊佐長教が 守護畠山政国を追い出し、その兄稙長を立てると、 長政政国に加担し、 稙長を攻めるが、長教三好政長(長慶の叔父)、三好長慶らは迎撃、敗死させる。
権力争いが続くなか、1543年に挙兵した細川氏綱 (晴元に滅ぼされた高国の子)1547年長教と戦い、長慶は勝利し、地位を高めていく。
1544年三好政長と対立し、 1546年敗れ、 1548年氏綱を支援し、晴元と対立。 と、同時に晴元派の三好政長を除くため、 長慶は氏綱長教畠山高政(政国の子)と同盟。 翌年摂津国江口にて三好政長を敗死させ、 将軍足利義晴義藤(義輝)は、 晴元を頼ったため、共に近江へ逃れる。
その後、足利義輝と争うが、 1552年六角義賢の調停により、 義輝と和睦。長慶は御供衆となり、 細川氏綱が管領に任じられる(傀儡)翌1553年晴元が将軍の下に戻り、再び不和となり、争い、勝利。 長慶は独自の支配体制を築く(将軍は近江に下洛)。 その後、三好家の版図は山城、摂津、丹波、和泉、淡路、阿波、讃岐と拡がる。
1558年将軍と交戦するが講和。 京都へ戻すと、1560年に河内、大和を制圧。
1561年晴元を幽閉。 子の晴之を擁立した六角義賢畠山高政に攻められ、 1562年久米田の戦いで、 弟三好義賢が敗死。 1563年嫡子三好義興が病死。 1564年松永久秀の策謀により、 謀反の疑いをかけられ、弟安宅冬康誅殺と、 長慶は親族を次々と亡くし、失意と病気の進行により、同年七月二十四日に病没。

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