毛利元就

もうりもとなり ( mouri-motonari )
1497 〜 1571


毛利元就 年表



毛利元就。安芸国の大名毛利弘元の二男。 五大老毛利輝元の祖父。幼名は松寿丸。
「三本の矢」
で有名。毛利元就は、1511年十五歳で元服。 1517年毛利元就の兄興元が亡くなり、 その子二歳の幸松丸の後見人となるが、 1523年幸松丸もわずか九歳で亡くなり、元就が家督を継ぐ。
毛利氏は出雲の尼子氏、周防の大内氏の対立に挟まれ、 はじめ、尼子氏に属すが、 同1523年元就の弟相合元綱尼子氏に応じた為、これを滅ぼし、大内義隆に属する。 1540年尼子晴久が郡山城に攻め寄せるが、 大内家臣陶隆房(陶晴賢)らの協力によりこれを破り、 1544年三男隆景小早川家に、 1549年に二男元春吉川家の養子とし、毛利家の基盤を固める。 毛利元就は、1554年晴久や尼子家臣と不仲の 尼子国久率いる新宮党を謀略により、 晴久に討たせて国力を低下させる。
また、1551年重臣と不仲の 義隆陶隆房らの軍勢に追われ、 義隆が自害してから1555年までの間陶晴賢に属すが、 同年十月安芸厳島に上陸した 陶晴賢を奇襲にて滅ぼし、 1557年陶一族を滅亡、 大内義長を自害させ、周防、長門を平定。基盤を作る。
1561年に元就は大内の旧領の継承を主張し、 当時の支配者大友氏とも抗争、 1564年に和睦し、豊前、筑前を領す。
また、1562年出雲へ侵攻。 1566年出雲の尼子義久を降伏させるが、 1563年に元就の長男隆元が急死。 毛利元就は1568年からは本格的に九州へ勢力を伸ばし、 豊後の大友宗麟と争うが、 宗麟の策略の前に破れ、豊前、肥前を奪われる。
その後、1571年六月十四日に亡くなり、その生涯を閉じる。

他の戦国武将歴史年表を探す


楽天で毛利元就 グッズ

毛利元就 グッズ

毛利元就