直江兼続

なおえかねつぐ ( naoe-kanetsugu )
1560 〜 1619


直江兼続 年表



直江兼続。越後国与坂城主樋口惣右衛門の子、樋口与六。 五大老上杉景勝の家臣。 直江兼続は関ヶ原の戦いのきっかけ 「直江状」 で有名。 直江兼続は1582年 直江実綱(景綱)の死後に直江を継ぐ。
上杉謙信1578年に亡くなるが、 子がいないため、上杉景勝(叔父長尾政景の子)上杉景虎(北条氏康の七男氏秀) の二人の養子の間で御館の乱と呼ばれる家督争いがおこる。 この争いは一年続き、父や兼続らの活躍により、 兼続属する景勝側が勝利を収めるが、国力を著しく消耗する。
時の権力者が織田信長から豊臣秀吉になり、 信長により国力を減らされていたため、 1586年には秀吉に属する。 そのころ兼続は家老となり、政務を取り仕切る。 また、直江兼続は謁見などで秀吉気に入られ、 1598年に主君景勝が会津百二十万石を与えられるときに、 家臣の兼続も米沢三十万石も与えられる。
それまで秀吉に恭順の家康が、 秀吉の死後すぐに天下統一の野望のため動き出すと、 家康は家臣でもない上杉景勝に上洛を促す。 これに対し兼続は反論。世に言う「直江状」を送りつける。 これに激怒の家康は会津征伐に向かうが、 この隙に石田三成が挙兵。 これに家康は反転、関ヶ原の戦いが始まる。 上杉軍は三成方に属し、家康方の 伊達最上らと対立。 しかし本隊が敗れ、やむなく会津に帰陣。 翌1601年家康に許しを請うため上洛。 景勝は米沢三十万石に減封となってしまう。
百二十万石からの減封のため、かなり財政が苦しくなるが、 直江兼続は誰一人解雇することなく、兼続自らも質素な暮らしを続け、 藩の財政が良くなるように政務に勤め、1619年に江戸で亡くなる。

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