織田信雄

おだのぶかつ ( oda-nobukatsu )
1558 〜 1630


織田信雄 年表



織田信雄。信長の二男。母は生駒氏
1569年、父が伊勢国の北畠氏を攻略。 降伏させると北畠具教の娘を娶る。1572年に元服。 北畠具豊と名乗り、1575年北畠氏の家督を継ぐ。 以後は信意と改名し、1576年田丸城にて長野氏などを謀殺。 また、三瀬御所にて家臣に命じて北畠具教などを謀殺。 これにより北畠一族や家臣の多くを廃して伊勢国を掌握するが、 1579年、独断で伊賀国に侵攻し、敗北。父に叱責される。
1582年本能寺の変で父が亡くなると、 近江国土山まで軍を進めるが、仇敵、明智光秀羽柴秀吉に敗れ、撤退。 戦後の清州会議にて後継者となれず、尾張、伊賀、南伊勢など約百万石を領し、織田信雄と改名。 1583年賤ヶ岳の戦いでは秀吉に属し、 織田信雄は弟、信孝の守る岐阜城を攻める。 秀吉との関係が悪くなると妹の嫁ぎ先の徳川家康と同盟。 1584年小牧、長久手の戦いに発展するが、 秀吉に織田信雄の領地伊勢国へ侵攻され、単独で講和。 家康は対立する名分が無くなり撤退する。
織田信雄は越中征伐小田原征伐などに従軍し、 家康の旧領への移封を命じられるが、拒否したため改易。下野国烏山に流罪となり出家。 織田信雄は常真と号する。1592年文禄の役にて、 家康の仲介により許されて再出仕。 1600年関ヶ原の戦い後は豊臣秀頼に仕えるが、 1614年大坂冬の陣の前に織田信雄は大坂城を退去。 織田信雄は間者として大坂城にいたとされており、1615年、大和国に五万石を与えられている。
織田信雄は短慮で失態が多かったとされるが、 一族が続々と断絶する中で織田信雄の一族は生き残る。

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