織田信長

おだのぶなが ( oda-nobunaga )
1534 〜 1582


織田信長 年表



織田信長。織田信長は天文三年(1534)、 尾張守護斯波氏の守護代織田大和守のそのまた 奉行人三人の中の一人、織田信秀の子として生まれる。幼名吉法師。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
という謡曲「敦盛」を愛好。 十三の時、幼名吉法師から、元服して三郎信長と名乗る。初陣は十四。 織田信長の祖先は平重盛の子資盛の遺子親真
織田信長は、1548年斎藤道三の娘濃姫と結婚。 また、織田信長は道三との会見の際、 道中「かぶき」な姿、態度で道三の家来のひんしゅくをかうが、 会見時に正装に変身、双方の様子を見た道三は織田信長の本質を見抜き、
「残念ながら自分の息子どもは織田信長の家来になってしまうだろう」
と、思ったという。
1551年信秀と死に別れ、 葬儀の際に「かぶき」ないでたちであらわれ、抹香を手づかみにして仏前に投げつける。
その時弟の信行は折り目正しく端座。 織田信長は、織田信秀に従う諸将や一族、肉親のおおくから見限られ、跡目相続を争う。
尾張一国統一に八年の月日を費やすが、 前田丹羽柴田らを核に、強力な織田家臣団が完成。 また同1559年将軍足利義輝に謁しようと上洛、 世間から尾張大名と認められる。
織田信長は、翌1560年 桶狭間の戦い今川義元に快勝。 1562年徳川家康との同盟を成立させ東の不安を除く織田信長。 1567年に美濃を統一。この時禅僧拓彦により、
「周の文王が岐山に興った」
という故事をもとに、美濃井ノ口の地名を岐阜と改名。 その後将軍足利義輝松永久秀に殺され、 1568年足利義昭を岐阜にむかえると、 信長は義昭とともに上洛。 入京一番のりをはたし、たちまちに畿内中枢を征圧、義昭を将軍にする。
1570年家康の助けをうけ、 姉川の戦いで織田信長は 朝倉 浅井連合軍を破り、 1571年比叡山延暦寺を焼きうち。 1572年武田信玄が動くと、 徳川 織田連合軍遠江三方原で戦うが、これは手痛い敗戦となる。 これらは信長との関係が悪化しつつある将軍義昭が糸をあやつっているのは明確である。
また、同年上杉謙信と同盟が成立。
1573年将軍義昭と縁が切れ、 織田信長は朝倉浅井三好義継を滅ぼし (武田信玄は病没)1575年信玄の子勝頼三河長篠の戦で一蹴。 1576年に安土城を築城、本拠に構える。
1577年本願寺毛利氏と対立。侵攻を開始。 信長は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を播磨、 明智光秀を丹波、柴田勝家を加賀に派遣。 1577年本願寺と同盟を結ぶ 上杉謙信に加賀手取川の戦いにて破れるが、 1580年本願寺が降伏。 1582年甲斐武田氏を滅亡。 また、1575年嫡子織田信忠に家督をゆずり、 信長は内大臣となり天下統一の完成を目指すが、 1582年6月2日未明、信長の家臣明智光秀が襲撃、 織田信長は京都本能寺にて切腹。享年49歳。墓は本能寺。

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