大内義隆

おおうちよしたか ( oouchi-yoshitaka )
1507 〜 1551


大内義隆 年表



大内義隆。父は京都で管領代として幕政に務める義興
出雲国の尼子経久が領国の石見、安芸の国に侵攻してくると、 1521年、父が帰国。大内義隆は父に従い出陣するが苦戦。 しかし安芸国厳島を拠点に攻略を開始すると好転し、 1525年には毛利元就が従属し、領国を回復する。
1528年に跡を継ぐと、大内義隆は九州方面の攻略に乗り出し、 豊後国の大友氏、肥前国の少弐氏と争い、 北九州沿岸を支配して松浦氏を従属させ、貿易の利権を掌握するが、 1530年少弐氏の重臣、 龍造寺家兼らの反抗により杉興連が敗れ、 1534年には大友氏にも敗れるが、 1536年少弐資元を討ち、 大内義隆は龍造寺胤栄を肥前国守護代に任命。1537年、 第十二代将軍、足利義晴から幕政への要請を受けるが領国経営に努め、 1538年大友氏と和睦。1540年尼子晴久毛利氏の安芸国吉田郡山城を包囲すると、 大内義隆は陶隆房(陶晴賢) を派遣して尼子軍を破り、1541年友田氏や安芸国守護の武田氏を滅ぼす。
しかし1542年、出雲国の月山富田城を攻めるが、 国人衆が尼子氏に寝返り敗北し、養子の晴持が溺死してしまい失意。 大内義隆が文化に興じるようになってしまうと、文治派の相良武任らを重用。 これにより武断派の陶氏内藤氏との関係が悪化していく。 1551年フランシスコ・ザビエルが訪れキリスト教の布教を許可するが、 同年陶晴賢が謀反。 大寧寺に籠るが包囲され、大内義隆は冷泉隆豊の介錯で自害。 大内義隆の嫡子、義尊も捕えられ殺害されてしまう。

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