真田幸村

さなだゆきむら ( sanada-yukimura )
1567 〜 1615


真田幸村 年表



真田幸村。信濃滋野一族。豊臣秀吉「表裏比興の者」 と評された真田昌幸の二男。信繁。 真田幸村の祖父は真田幸隆
1585年徳川家康が、 北条氏と講和の条件に「真田昌幸の治める沼田を割譲」と勝手に出し、 怒る昌幸はこれに反対。家康と対立すると、 家康昌幸の居城上田城を包囲。 上杉景勝に救援を求め、昌幸家康を撃退。
同年幸村は盟約の人質として、豊臣秀吉を訪れる。 秀吉は幸村の才能を見抜き、近臣として仕えさせ、 大谷吉継の娘を妻とさせる。
秀吉没後、1600年家康の 会津征伐の際、幸村は家康の軍に従軍するが、 西で石田三成が挙兵すると、真田幸村は父と共に三成方につき、 上田城に立て篭もる。
関ヶ原に向かう家康の子秀忠の軍を相手にわずかな兵で見事に守り通す幸村親子。 しかし、西軍の大将三成が敗れてしまい、幸村や父達はその後捕らえられるが、 東軍で戦功を挙げた兄真田信之 (家康家臣本多忠勝の娘婿)のとりなしにより、 父と幸村はなんとか死罪を免れ、高野山麓の九度山に幽閉。
1614年家康の処遇に不満を持つ 豊臣秀頼一派が挙兵すると、 幸村は秀頼に高禄で召抱えられ大坂城に入城。 大坂 冬の陣「真田丸」と呼ばれる戦術で奮闘。 その戦果もあり、家康と和議を結ぶが、 家康は和議の条件と称して、守りの要である大坂城の堀を全て埋め尽くしてしまう。
堀が無くなり、篭城が厳しい翌年大坂 夏の陣では、 家康の本陣めがけて一直線に突撃。 しかし、家康まであと一歩というところで幸村は惜しくも力尽きてしまう。 この戦ぶりを見た徳川方の武将は、
「真田日本一の兵」
と褒め称え、以降真田幸村は語り継がれていく。

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