陶晴賢

すえはるかた ( sue-harukata )
1521 〜 1555


陶晴賢 年表



陶晴賢。興房の二男。陶晴賢は「西国無双の侍大将」と呼ばれ、 周防国の大内義隆に仕える。
はじめ隆房と名乗り、1539年に父が没する。1540年、 出雲国の尼子晴久が安芸国の吉田郡山城に攻め込むと、 城主の毛利元就の援軍総大将として出陣して見事撃退。 しかし出雲国への侵攻は度々敗れ、これにより義隆は野心を失い文芸に傾倒。
そのため文治派の相良武任らと対立。 主命で転戦するも義隆との関係も次第に悪化。 一度は武任を失脚させるも再び復帰。 暗殺も失敗して対立が深まると1551年、周防国富田若山城にて挙兵。山口に侵攻し、 逃れる義隆大寧寺に追い込んで自害させ、公家たちを殺害。 配下に筑前を攻めさせて武任杉興運を殺害すると、 1552年大内氏の血を引く大友宗麟の弟、 大友晴英(大内義長)を当主に迎え、一字賜り陶晴賢と名乗る。
北九州の領内支配も落ち着くが、1554年、 陶晴賢が石見国の吉見正頼を攻めていると毛利元就が反攻。 安芸国の大半を切り落とされてしまい、1555年、 陶晴賢は厳島の毛利領を攻略しようと大軍を率いて上陸。 そこを毛利軍に奇襲されて敗北。水路も断たれ、陶晴賢は自害する。

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