武田信玄

たけだしんげん ( takeda-shingen )
1521 〜 1573


武田信玄 年表



武田信玄。清和源氏新羅三郎義光の子義清が祖。 甲斐守護武田信虎の嫡男。幼名勝千代。 初陣は1536年信濃海口城1541年武田信玄は、圧政する父信虎を駿河へ追放。
信玄は1542年から信濃侵攻を開始。 諏訪頼重高遠頼継を征圧。 ついで佐久郡へと侵入。村上義清を攻める。 また、諏訪頼重を下した信玄は、その娘由布姫 を側室にむかえる(のちに武田勝頼を出産)
信玄は1547年「甲州法度」を制定。 治山、治水等の民政にも努め、 1548年信濃塩尻峠の戦い小笠原長時を破るが、同年翌年村上義清に信玄は破れる。のちに真田幸隆の調略により、 義清の配下清野氏が武田につき、 義清を破り、武田信玄は侵略を果たす。
その後小笠原長時村上義清は 越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、 要請を受けた景虎は信濃へと軍を差し向ける。これが元で 1553年〜1564年までの十二年間、信濃川中島にて 謙信と五度に渡り合戦をおこう。 また1554年、善徳寺において北条今川武田の婚姻関係による三国同盟が成立。 1555年木曾義昌を降伏させる。
1564年以降は何度も破れた箕輪城主長野業正の死に伴い、 武田信玄は北関東へも進出。そこでも上杉謙信と対立。 1568年には同盟関係の今川氏真を攻め滅ぼし、 救援に来た北条氏康とも対戦するが、 1571年氏康の死後、和睦。
その後武田信玄は三河、遠江への侵攻をおこない、徳川家康と対立。 1572年三河三方ヶ原の戦いにて 家康 織田信長の連合軍を破るが、 翌年四月三河在陣中に発病、没した。 以後一族は消えていくことになる。

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