豊臣秀吉

とよとみひでよし ( toyotomi-hideyoshi )
1536 〜 1598


豊臣秀吉 年表



豊臣秀吉。天文五年(1536)、尾張中村出身。 豊臣秀吉の父は織田信秀の足軽木下弥右衛門。 祖先は代々武士で、豊臣秀吉は八歳の頃寺の小坊主となり、 十歳の頃、遠江、三河、尾張、美濃の四カ国を放浪。 二十歳の頃、遠江の松下嘉兵衛尉に仕え、 1558年木下藤吉郎秀吉を名乗り、 尾張清洲城主織田信長の家来になる。
1561年豊臣秀吉はお祢と結婚。 1566年に西美濃墨俣築城をあげ、 1568年信長上洛時において、 近江箕作(みつくり)城攻略をあげ、 1569年明智光秀中川重政丹羽長秀 らとともに京都奉行に任ぜられる。
1573年将軍足利義昭追放同年の 浅井 朝倉攻略戦での戦功により、 豊臣秀吉は浅井の旧領十二万石を得て近江小谷城主に取り立てられる。
この大転機を肝に銘じ、丹羽柴田両雄を 併せ呑むほどの成長をとげたいとの願望を表し、木下姓を羽柴と改め、羽柴筑前守秀吉と名乗る。
1577年以後、毛利攻めの総司令官として専念する五年間に、 姫路城を拠点に播磨、但馬、因幡、淡路、備前を平定。備中に手を伸ばす。
1582年備中高松城を包囲中の秀吉に、本能寺の変の報が届く。 秀吉は、信長の死を秘して毛利氏と講和。 軍を帰し山崎の合戦明智光秀を破る。 この後、豊臣秀吉は太閤検地を進める。
その後主導権をめぐり、織田信孝柴田勝家と対立。 翌1583年賤ヶ岳の戦いにて破り、 信長の後継者の地位を確立し大坂城を築城。
1584年織田信雄徳川家康と 尾張小牧、長久手で戦い、講和。 更に1585年に四国の長宗我部氏1587年に九州の島津氏を平定。 豊臣秀吉はこの時にバテレン追放令を発布。 翌年には刀狩りをおこない、 1590年に小田原北条氏を滅ぼし、天下を統一。
この間に関白、太政大臣に任ぜられ、豊臣姓を賜り、 1591年、豊臣秀吉は養子豊臣秀次に関白を譲り太閤と称し、 1592年1596年朝鮮出兵を行うが敗れる。
また、1593年豊臣秀頼が生まれると、 豊臣秀次を高野山に追放。自害を命じ、 秀次の妻子らを斬殺するなど、次第におかしくなる。 その後の1598年八月十八日豊臣秀吉は伏見城で死去。 秀吉は五大老に秀頼を託すが、この後、豊臣の世はなくなってしまう。

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