上杉景勝

うえすぎかげかつ ( uesugi-kagekatsu )
1555 〜 1623


上杉景勝 年表



上杉景勝。喜平次とも。上杉景勝の父は上田の当主、長尾政景。 母は上杉謙信の姉の仙桃院
はじめは長尾顕景と名乗る。1564年に父が溺死してしまうと春日山城に移り、 謙信の養子となる。それからは上田衆を率いて戦い、 1575年に上杉景勝と名を改め、上杉景勝は一門衆筆頭に記される。
1578年謙信が亡くなると、 跡継ぎ争いの御舘の乱が勃発。 景勝は機先を制して春日山城を占拠。財政面でも有利となると、 御舘に籠もる北条氏の養子、上杉景虎と敵対。 更に越後国侵攻を企てる武田勝頼を味方につけ、 勝頼の妹、菊姫を妻に迎えて同盟を結ぶと、 1579年景虎の自害にて乱が終息。 1580年の論功行賞で長年権力争いの絶えない越後国人衆への粛清を行い、上田衆による支配体制を強化。 これに対して1581年新発田重家が謀反。 織田信長越中国侵攻や、 1582年武田氏滅亡により景勝は危機を迎えるが、 同年六月信長が本能寺で亡くなった為、かろうじて危機を脱する。
上杉景勝は重家との戦いには敗れるが、 北条氏との北信濃の争いでは有利に進め、豊臣秀吉に組して誼を通じ、 1587年重家を討伐。 1588年に上洛して従三位、参議に叙任。 1589年には本間氏を討伐して佐渡国を統一するなど、 越後国や北信濃、出羽三郡と領地を拡大。 また上杉景勝は、1590年小田原征伐や、 1592年文禄の役に従軍。 1594年、権中納言に叙任され、 1595年小早川隆景の隠居により五大老に任ぜられる。
1598年、上杉景勝は会津百二十万石に加増され移封するが、 秀吉が亡くなると1600年徳川家康が主君でもないのに上杉景勝に召喚命令を出す。 これに対して重臣の直江兼続が直江状を送りつけ、 家康による会津征伐が起こる。 その隙に石田三成が挙兵して関ヶ原の戦いに発展。 上杉景勝は最上義光伊達政宗と敵対するが、 本戦の三成が敗れてしまい降伏。1601年家康に謝罪し、出羽国米沢三十万石に減封されてしまうが、 上杉景勝は米沢藩主として領内の経営に努める。

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