宇喜多秀家

うきたひでいえ ( ukita-hideie )
1572 〜 1655


宇喜多秀家 年表



宇喜多秀家。備前国岡山城主、直家の二男。
1581年に父が亡くなると、 翌1582年織田信長から本領を安堵され、家督を相続。 幼少である為、叔父や重臣たちの補佐をうけながら、 織田家臣、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の下で中国遠征に従う。
同年六月本能寺の変にて信長が亡くなると、 秀吉毛利軍と和睦。 備中東部と備前、美作を与えられ、五十万石以上の大名となり、 元服時に秀吉から一字賜り、宇喜多秀家と名乗る。 1586年には父は前田利家で、 秀吉の養女となった豪姫を妻に迎え、 宇喜多秀家は一門衆扱いとなるほどの寵愛を受ける。
宇喜多秀家は1585年四国征伐1587年九州征伐1590年小田原征伐に従軍。 1592年文禄の役では、 小早川隆景と明の将、 李如松の軍を碧蹄館にて破り、 1594年に参議から権中納言に昇進。 1597年慶長の役では、 毛利秀元と共に監軍として渡海。 1598年、帰国後、宇喜多秀家は五大老のひとりに任命されるが、 秀吉没後の1599年宇喜多騒動と呼ばれるお家騒動が勃発。 秀家は首謀者の戸川達安の暗殺を謀るが、 仲の悪い一族の詮家達安を匿い対立。 徳川家康の仲裁を経て解決するが、 多くの重臣は家康に従ってしまう。
1600年関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は西軍の副将となり、 家康に対抗するが、小早川秀秋の裏切りで大敗。 戦後、宇喜多家は改易。秀家は薩摩国の島津義弘を頼り庇護をうける。 1603年前田家島津家の懇願もあり死罪は免れ、駿河国久能に幽閉。 1606年に八丈島へ流刑となる。 以後、前田家からの仕送りを受けながら1655年に病死。 宇喜多秀家の子孫は現在に至る。

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